新年明けましておめでとうございます。
今年も  "しじゅうから古典&連句の会” ごひいき下さいますよう。

さて新年会に10名の皆さまがご参加くださって大変有り難うございます。
おかげさまでCOTOCOTOさんの自家栽培野菜をつかった、大変美味しい野菜の料理も好評で幹事としてほっとしています。 またテーブルにあしらえた、めずらしいカボチャの数々もオブジェのようでとてもきれいでした。

遠方から駆けつけてくださったみみずくさんはじめ、皆さまでおおよそ3時間近く、ゆっくり歓談できまして大変楽しい一時でした。

場所の選定や料理について、以前は 大和のまほろば御膳シリーズをまわってきまして、今回はすこしカジュアルでかつ野菜がテーマとなりました。 これからも新しい奈良のご馳走を味わえるようアンテナを張って行きたいとおもいます。

日時: 平成31年1月10日(木)11時30分から
場所: 場所:ならまちセンター内、 COTOCOTO ( 11:30 open)  


場所は、旧奈良市庁舎で、現在は奈良市、地域コミニティセンター・中央図書館・ホールなどがあります。

梛沙さん、阿修羅さんともにご都合により欠席でしたが、今年も宜しくお願いします。

このclubも、しじゅうからから始まっていまや、ごじゅうから、いえいえこの先は勘定しないと決めております。

 

平成もおわり、新しい年号は4月1日に発表の予定だそうです。

バブルが崩壊し、経済的には停滞の時代であり、確かに直接の戦争に巻き込まれることのなかった幸運もありましたが、格差がひろがり、少子高齢化は著しく、グローバル化による恩恵も、ひずみも残しつつ、問題山積のまま次の世代に先送りすることは、もはや出来ないところかと思います。


古典にまなび、自由律とはいえ連句を楽しむ古典&連句clubも12年目でしょうか、clubに集い、参加して下さった皆さまが、健康で健やかにそして生活の一部として、気軽に楽しんで頂けましたら幸いです。


2月定例会は例によって、第3週木曜日 21日、場所は ”茶房てん”を予定しています。

テーマは、トヨチュウさん、ヤマチャンにお願いしていますのでよろしくお願いします。


なお、連句について、なにこれ連句第23巻 南円堂の巻き

初折り、裏3句案  足指を湯船のふちでグーチョキパー・・・・・・・クレチャン

をUPの予定です。


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初折り
(表)
発句     秋風に扉を開く南円堂・・・・・・・・・・・・クレチャン
脇(月)     さしいる月にうかぶ光背・・・・・・・・・かわせみ 
3      カモ来たり水面のはゆる夜叉ヶ池・・・・・・・Hilo      
4        ボーナスはまだ?と大蔵省・・・・・・・・クレチャン      
5      ふすま開け先ず声かける糸手鞠・・・・・・・・トヨチュウ   
6        転がるころがる段畑小春・・・・・・・・・かわせみ


(裏)
1      師走の夜友を偲びて果てしなく・・・・・・・・Hilo     
2        オリオン追って犬も西空・・・・・・・・・トヨチュウ            
3      足指を湯船のふちでグーチョキパー・・・・・・クレチャン     
4     
5      
6     
7(月)  
8     
9       
10     
11(花)  
12 

11月8日(木)10時から    11月定例会 ココチノに於いて

1,発句について、当初案として『秋風に扉ひらけし南円堂』としましたが、古語の文法上の難しさから平易で素直な表現に変更しました。

2,3句について、皆様のご意見を頂戴した上で最終的に、Hiloさんから面白い発想だなと思われる
” 映ゆる と漢字を混ぜるとreflection reflect にて限定されてゆくかと思うのです。 
従って ”はゆる” と、かなにして 葉ゆる 羽ゆる 波ゆる 映ゆる などいずれにも自由に採れる自由律にさせて頂きたくよろしく ” とのcommnet をいただきましたので、そのようにUPさせていただきます。

なお、5句、6句は夏、または冬、裏に入り1から6句は無季が望ましいとされますとご報告していますが、なにこれ連句の自由律の原則にて、必ずしもとらわれる必要はありませんので、気楽に投句いただきますよう。


今回はミルクさん、カササギさんからのご提案により新しい会場『ココチノ』で開催しました。

日時: 11月8日 (第2木曜) 10時から

場所: ココチノ にて

参加11名 梛沙さんご都合によって欠席


ママさんの都合で昼食オーダーを事前にご連絡いただき、おかげでスムーズでした。

前回に引き続き、聖徳太子ゆかりの法隆寺創建時代に遡り、法隆寺が一度全焼したことが日本書紀に残っており、その信憑性を疑う従来の主張を含め、今に至る定説の変遷をトヨチュウさん執筆の詳しい資料によって学びました。

 

毎回のように天皇系統について、トヨチュウさんからお聞きしているのですが、すべてを網羅されている事に本当に驚く一方、思考停止したかのように、系統をまったく覚えられないわたくしクレチャンも、ある意味驚きです。


連句の部について、連句のスレッドに定例会での編纂顛末を記していますので、こちらをご覧ください。


以下はトヨチュウさんのオリジナル資料抜粋です。一部ブログの仕様に合わないので、割愛部分があります。 ご容赦ください。

また定例会の後、Hiloさんから以下commentをいただきましたので、こちらも参照なさってください。

『さてさて、、私には再建設は当然というか 若草伽藍をウマヤドノみこが建立、 そこで聖徳太子一族の怨霊を鎮魂するお寺として 法隆寺として再建されたと知るところでした。
昨日、この点が言及されなかったのは意外であり、残念です。
以下参照なさっていただけたら幸いです。
 『隠された十字架』(かくされたじゅうじか)は、哲学者・梅原猛が著した評論。副題に「法隆寺論」とあるように、法隆寺に関して論じている。雑誌『すばる』(当時は季刊誌)に3回にわたって連載され、1972年(昭和47年)5月に新潮社から単行本が出版された。


<< 古典&連句関係各種資料>>H30-11-01

法隆寺創建と聖徳太子

 日本書紀の記載によれば、聖徳太子は推古天皇13年(605)から斑鳩宮に住んでいた。

この宮の周辺には飛鳥時代創建と伝わる寺院が多い。斑鳩寺、中宮寺、法起寺(旧称 池後寺)法輪寺(三井寺)がある。この地はあまり帰化人の住む地域ではなかったので恐らく聖徳太子がこの宮へ移動してから建立されたものと推定されている。

 現代に伝わるいくつかの聖徳太子伝が、上記の寺々を太子創建の七大寺としている。ある意味で、推古朝以前まで仏教と無縁の地であったこの地に沢山の寺が創建されたのは、やはり、聖徳太子が仏教を尊び、興隆に尽くした結果とみてよい。

 斑鳩の諸寺の中で地理的に斑鳩宮に近く、太子に縁の深いのは法隆寺(斑鳩寺)といえる。ただし、結論から言えば、現存の法隆寺は創建当初のものでなく、天智天皇の九年(670) に雷によって焼失し、今の主要伽藍は、それより後の再建であるというのが定説となった。しかし、これと反対に現在の法隆寺は太子が創建したままの寺であるとする説は我が国の中世以来、長年にわたり法隆寺の関係者や当時の仏教界の常識となって信じられてきた。そして、明治以後でもその両論が激しく対立し論争となっていた。

 さて、日本書紀には最初の法隆寺創建にまつわる記事は残念ながら伝わらない。ただ推古天皇の14年(606) の条に太子が法華経の講義をして推古天皇からお褒めをあずかり播磨国の田地を賜ったのでこれを斑鳩寺に納めたとの記事がある。この記事が本当とすれば太子がこの寺の大檀那(保護者)であったことは確実といえよう。

 さらに、法隆寺の創建の史料とされているものが二つあり、金堂の東の間に安置されている薬師像の「光背の銘」が一つ、そこには次の記載がある。―――用明天皇(太子の父)のご病気の平癒のために「一寺と薬師像」を造ってほしいと詔された。完成しない内に天皇は崩じたので次の次の推古天皇は太子とともにこれを継続し、推古15年に落成した。―――  しかし、明治以後の考証により各種の矛盾点があって奈良時代になってさかのぼって彫刻されたのではとされ、確かな証拠とされなくなった。

 二つ目は、金堂の本尊・釈迦三尊の「光背の銘」には、「三尊」の造像と完成の記載があり完成年は癸未(623) となっていてその年までに法隆寺は存在していたとしている。(写真①)

若草伽藍の発掘で決着した再建の論争

 日本書紀の天智天皇九年(670) 四月の条に次の記事がある。

“夜半の後、法隆寺に火災あり。一屋余すなし。大雨雷震す。”

 この記事を読めばどう考えても「法隆寺は天智九年に落雷により丸焼けになった。」

ことは日を見るより明らかである。喜田貞一氏らの説は当然、創建当初の「原・法隆寺」は焼失してしまい、670年以後に何年もかけて再建されたとしている。※1

 それに対して関野 貞氏(日本建築史)らの説は、日本書紀のあの記事は誤りで現在見る法隆寺は推古天皇時代に創建されたままの寺であるというもの。確かに日本書紀は間違ったり、故意にねじまげたりした記事も散見されるが、天智九年(670)といえば日本書紀の完成が一応終了した養老四年(720) から50年前に過ぎない。そんな近くの時代の事件に間違った記載があるのは不思議すぎるというのが再建論者の言い分だった。

そこで、非再建論者たちは建築学の技術的観点から「尺度制」の違いなどを根拠に「火事で焼けた」寺は付近にあった別の寺院に違いないとの論を展開するに至った。

〇 若草伽藍の調査(再建論の決定的証拠に)

 法隆寺の南大門をくぐると、砂利敷きの広い参道が北へとつづきその先に石段が見える。石段を上らずに右へ折れて東の伽藍へ通じる道を200mほど進むと普門院の前に至る。この裏庭に大きな礎石があることは古くから注目されていて江戸時代の書物などにも登場する。この礎石こそ最初の法隆寺の五重塔の芯柱の心礎らしい。(写真②)

 寺の再建論争が深まるにつれてこの伽藍跡は学会の脚光を浴びてきたので昭和14年に至って発掘調査が実施される運びになった。発掘調査はこの礎石を原点とするかなりの面積に亘って行われた。この礎石自体は、約3m平方あり高さは1.2m、重量は12トン余りだった。その上面には直径70センチほどの掘り込みがあり、これが心柱を据えるための窪みである。伽藍配置が現在みる法隆寺様式と違い、四天王寺様式の配置であり、金堂や他の堂も現存のサイズとほぼ同じことも判明した。

 さらに重要な発見事項はその「南面する諸堂宇」の座標上の向きである。現存する法隆寺の座標軸は磁石の示す北に対して3度左にブレているだけなのに、若草伽藍の軸線は磁北に対して20度も左にブレていたのである。つまり建物の正面は真南に面していず、17度も南東向きだった。この調査によって再建非再建論争は一応決着のめどが立つこととなる。

 非再建論は、創建当初のままの法隆寺伽藍と若草伽藍が同じ時点で併存していたということになり、調査結果から推定すると似たような寺院群が17度方向を違えて並立していることとなる。別図1.のように若草伽藍の西北角は法隆寺伽藍の東南角と衝突してしまう。また、付近の地割り状況の中に若草伽藍の座標に平行または直角になっている箇所が存在するのである。例えば、東大門から東の夢殿への道、北方(上方向)へ通じる道と土塀、本図の左下の西大門あたりの道がそうである。

 このような土地割の状況によって二つの寺院群が同時期に存在したとはとても考えにくく、若草伽藍が焼失してのちに今の法隆寺が再建されたというのが自然であろう。他の根拠として、出土した瓦の彫刻の模様が現・法隆寺(西院)の出土瓦より古い形式であることが確認された。

〇 それでも法隆寺が木造の世界最古の建造物群であることはゆるがない。

図:西院伽藍 (再建後とされる 伽藍配置)国宝指定物件 1) 金堂 2) 五重塔 3) 大講堂 4) 回廊 5) 中門 6) 夢殿(東院)

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写真:金堂釈迦三尊像・若草伽藍塔の心礎

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図2:聖徳太子周辺系図 

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補遺 天皇系統図 (24)仁賢天皇は従来の皇室  (26)継体天皇は北陸の土豪出身(非皇族)





今回は気候も良く、興福寺南円堂拝観、国宝館見学を含め、境内並びに公園の散策を楽しみました。

日時:10月17日(水曜) 集合10時
場所: 近鉄奈良駅 地上 行基さん前
参加者9名 阿修羅さん、なぎささんご都合により欠席でした。

南円堂拝観は、待ち時間もなくスムーズに入れましたが、年に一回の機会に、拝観者は不空羂索観音菩薩坐像に釘付けとなり動こうとしません。
で、係りのかたに即されてようやく正面に立てました。
なによりそのお姿の大きいことに驚きましたが、多分長谷寺の観音菩薩に次ぐ大きさではないかとの事でした。

お名前の一部の羂索とはなにかと言うことは知りませんでしたが、この観音様が持つ象徴物で、羂索とは縄であり、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音さま」との事でした。
一年に一回の一般公開の機会を得られまして、ヤマチャンに感謝いたします。 

次に国宝館入場は有料なのですが、メンバーはほぼ、奈良市老春手帳などで無料や半額となり、一般料金はお一人様で--お若いから--、とお慰め?しました。

お目当ての阿修羅さまは、ペルシャでは恵みを与える太陽神、インドでは熱で大地を干上がらせる厄介者と、全く反対となり、そして帝釈天と戦う戦闘神となり、さらに仏教に取り入れられて後には、お釈迦様の守護神として説かれています。
ややこしいですが、阿修羅さまの2面性に私たちはいつも翻弄されていたわけですね。
阿修羅像を含む、元は異教の乾漆八部衆立像のお姿を見ると、それぞれが個性的でたぶん八頭身、特に五部浄像(上半身)はエキゾチックな顔立ちで引きつけられました。

ブログ管理者の趣味としては、板彫十二神将立像のユーモラスなお姿が好きです。中にはボディビルのようなポーズや武術のポーズなどなど興味深いですね。

国宝館を出た時、秋の爽やかな風に、ついぞ発句のネタにならないかと思いまして、
昼食時に発句案として次のようにしました。

秋風に扉ひらけし南円堂--------クレチャン

昼食は近鉄奈良駅舎ビル8F、中華料理ー百楽で丁度9人ギリギリ座れるラウンドテーブルが確保できて、ランチ&cafeがリーズナブルで、歓談に最適となって、つい長居をしました。
お店の方も親切でした。111.png

発句案、皆さまのご了解を頂き、なにこれ連句の第23巻 南円堂の巻きとして発進します。スレッドは後ほど立てますので宜しくお願いします。
脇句募集中です。
新しい連句のcommentからお寄せくださいませ。
Ps.クレチャンあてmailでも結構ですので、ご遠慮なくお申し付けくださいませ。


      
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名残(表)
1      凌霄花(ノウゼン)の影を踏みふみ無縁坂・・・・・・トヨチュウ
2       you tubeエンジョイバッハ・モーツアルト・・・・・Hilo
3      献立はアボカドサラダと蛸飯に・・・・・・・・・・・クレチャン
4         不二の白雪シャーベット添え・・・・・・・・かわせみ
5      手ぬぐいに大暑の空気絞りきる・・・・・・・・・・・クレチャン
6         敷島の屋根とばす竜巻・・・・・・・・・・・・・Hilo
7      軍神の狼煙と見ゆる火星出づ・・・・・・・・・・・・トヨチュウ
8        あつき想ひのきみに届けと・・・・・・・・・・・・かわせみ
9      遠望の渦潮しろし鳴門橋・・・・・・・・・・・・・・クレチャン
10       パンパシゲームに目が泳がされ・・・・・・・・・・・Hilo
11(月)   雲はしり鬼ごっこの月いっき逃げ・・・・・・・・・・クレチャン
12       地上に深き影落としつつ・・・・・・・・・・・・・かわせみ


名残(裏)
1   証城寺(しょうじょうじ)異国のタヌキ大宴会・・・・・・・トヨチュウ
2       ほろ酔いのいま時はたゆとう・・・・・・・・・・・・・Hilo
3     大海の波頭に揺らぐ三保の松・・・・・・・・・・・・・トヨチュウ
4       都をどりもよいやよいやさ・・・・・・・・・・・・クレチャン  
5(花)  平成の果てなむ春のさくら花・・・・・・・・・・・・・・かわせみ
6(挙句)   椅子の小さき昭和の喫茶・・・・・・・・・・・・・クレチャン


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三保の松原に関し、かわせみさんからよせられた短歌をご紹介させて頂きます。

初日より手繰り出される静かなる波ほろばろと洋(なだ)を渡り来(く)・・かわせみ


9月 古典&連句 定例会のご報告 連句の部

名残裏 3句をトヨチュウさんにお願いして、急遽変更して頂きました。

3   大海の波頭に揺らぐ美保の松・・・・・・・トヨチュウ

として頂き、4句春の句につなげやすく、4句(案)になりました。
残すところ、春の花(さくら)挙句のみとなっています。




823日のオフ会無事に終わりました。 連句進行について、このスレッドに記録しています。

6句   軍神の狼煙と見ゆる火星出づ・・・・・・・・トヨチュウ

として情景の対象を限定したほうが良いとの事になりました。


10句  パンパシゲームに目が泳がされ・・・・・・・・Hilo

散文的ではないかとの意見もありましたが、句そのものが泳いでいる(揺らいでいる)事を逆手にとって、このままUPすることとなりました。

なを、8月と言うこともあって、トヨチュウさんの詠まれた『軍神』に関連し、かわせみさんからcommentでご紹介してくださった短歌もこちらで再掲させて頂きます。

1 村の名は星合いといふ眉(まみ)太き叔父を葬(はふ)りき軍神として 

『もう一つの窓』 水野智子

2 長高き文(ふみ)に綴られ墓碑のごとき「戦艦大和の最後」読み次ぐ

 『ヤママユ』

3 われら児童の最敬礼にはにかみて干芋(かんころ)賜びし「軍神の母」

 『ヤママユ』