古典&連句のオフ会を下記要領で開催します。
なお、流動的部分もありますが、確定とさせて頂きます。

日時:10月17日(水曜) 集合10時
場所: 近鉄奈良駅 地上 行基さん前

今回は気候も良い時期ですので、興福寺南円堂拝観、国宝館見学を含め、境内並びに公園の散策を楽しみたいと思います。

尚、南円堂拝観は、10分程度の待ち時間があるかもしれないとヤマチャンから連絡をいただいています。
また国宝館入場は有料で一般700円、奈良市老春手帳提示で無料、身障手帳提示で半額だそうです。

昼食について
取り敢えず近鉄奈良駅舎ビル8F、中華料理ー百楽を予定しています。
ここはランチですと予約が出来ないとの事ですが、開店が11時半なので、その時間ならスムーズです。
ただ12時半になってしまうと平日とはいえ多少の待時間はあり得るとの事でした。
その時点での変更もありますので、宜しくお願いします。
又食後の歓談に適したcafeなどお勧めありましたらお知らせくださいませ。

連句の第23巻、発句を募集します。
発句の特権は何を詠んで頂いても結構ですし、季節も問いません。
是非、575発句を、このスレッドのcommentからお寄せくださいませ。
Ps.クレチャンあてmailでも結構ですので、ご遠慮なくお申し付けくださいませ。


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名残(表)
1      凌霄花(ノウゼン)の影を踏みふみ無縁坂・・・・・・トヨチュウ
2       you tubeエンジョイバッハ・モーツアルト・・・・・Hilo
3      献立はアボカドサラダと蛸飯に・・・・・・・・・・・クレチャン
4         不二の白雪シャーベット添え・・・・・・・・かわせみ
5      手ぬぐいに大暑の空気絞りきる・・・・・・・・・・・クレチャン
6         敷島の屋根とばす竜巻・・・・・・・・・・・・・Hilo
7      軍神の狼煙と見ゆる火星出づ・・・・・・・・・・・・トヨチュウ
8        あつき想ひのきみに届けと・・・・・・・・・・・・かわせみ
9      遠望の渦潮しろし鳴門橋・・・・・・・・・・・・・・クレチャン
10       パンパシゲームに目が泳がされ・・・・・・・・・・・Hilo
11(月)   雲はしり鬼ごっこの月いっき逃げ・・・・・・・・・・クレチャン
12       地上に深き影落としつつ・・・・・・・・・・・・・かわせみ


名残(裏)
1   証城寺(しょうじょうじ)異国のタヌキ大宴会・・・・・・・トヨチュウ
2       ほろ酔いのいま時はたゆとう・・・・・・・・・・・・・Hilo
3     大海の波頭に揺らぐ三保の松・・・・・・・・・・・・・トヨチュウ
4       都をどりもよいやよいやさ・・・・・・・・・・・・クレチャン  
5(花)  平成の果てなむ春のさくら花・・・・・・・・・・・・・・かわせみ
6(挙句)   椅子の小さき昭和の喫茶・・・・・・・・・・・・・クレチャン


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三保の松原に関し、かわせみさんからよせられた短歌をご紹介させて頂きます。

初日より手繰り出される静かなる波ほろばろと洋(なだ)を渡り来(く)・・かわせみ


9月 古典&連句 定例会のご報告 連句の部

名残裏 3句をトヨチュウさんにお願いして、急遽変更して頂きました。

3   大海の波頭に揺らぐ美保の松・・・・・・・トヨチュウ

として頂き、4句春の句につなげやすく、4句(案)になりました。
残すところ、春の花(さくら)挙句のみとなっています。




823日のオフ会無事に終わりました。 連句進行について、このスレッドに記録しています。

6句   軍神の狼煙と見ゆる火星出づ・・・・・・・・トヨチュウ

として情景の対象を限定したほうが良いとの事になりました。


10句  パンパシゲームに目が泳がされ・・・・・・・・Hilo

散文的ではないかとの意見もありましたが、句そのものが泳いでいる(揺らいでいる)事を逆手にとって、このままUPすることとなりました。

なを、8月と言うこともあって、トヨチュウさんの詠まれた『軍神』に関連し、かわせみさんからcommentでご紹介してくださった短歌もこちらで再掲させて頂きます。

1 村の名は星合いといふ眉(まみ)太き叔父を葬(はふ)りき軍神として 

『もう一つの窓』 水野智子

2 長高き文(ふみ)に綴られ墓碑のごとき「戦艦大和の最後」読み次ぐ

 『ヤママユ』

3 われら児童の最敬礼にはにかみて干芋(かんころ)賜びし「軍神の母」

 『ヤママユ』




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古典&連句の皆さまに
急激に気温が下がり、秋雨ふるなかお集まり下さって有り難うございます。
さて今月の古典&連句 定例会は
日時:9月20日(木)10時30分から
場所:茶房てん にて
9名参加(阿修羅さんが久しぶりに来て下さいました。)
欠席、梛沙さん、SKMさんそれぞれご都合のため。

8月のオフ会にて、はるかさんに作成して頂いた聖徳太子『一七条憲法』の背景や意義についての詳しい資料を説明して頂き、現代語訳読み下しを9条まで進めましたので、今回は10条から17条の最後まで読み進めました。 

冒頭、再度はるかさんから、当時蘇我氏の台頭に伴い、天皇即位・仏教の受容をめぐる深刻な争いの背景や、聖徳太子が仏教の興隆や飛鳥文化の興隆に残した業績を解りやすく説明して頂き、大変勉強になりました。
有り難うございました。
また改めて資料の緻密さを再認識し、さぞや作成が大変だったと感謝しています。

現代語訳を読み進めるにつれて、第1条の『和をもって貴しとし、・・・・』が日本人の精神世界の中心にあったことはあまりに有名ですが、17条憲法が現在のそれではなく、当時の官吏に向けた法文であることも明らかになってきます。
聖徳太子が最も重視したことは、人はみな 『凡夫』にすぎないと喝破し、ゆえに天皇の臣下であるなら率先して能く聴き、私執をすてよと説いています。

ブログ編集者の特権として、資料のなかの⑥に 和辻哲郎さんが著した『 聖徳太子の憲法は国家が人倫の道の実現であるという思想であり、実際の政治はしばしばこの伝統を離れるが、ひとたり政治の理論を求めるならここに帰らざるを得ない 』という解釈が好きです。

はるかさんによれば、592年推古天皇が即位し、593年太子が摂政となってのちは、奇跡的ともいえる平穏がつづきます。
622年推古30年 太子が斑鳩宮で没したのち、いったんは生駒に逃れ、斑鳩宮に帰った太子の長子、山背大兄王と一族を曽我入鹿が襲い、自害させたのは、太子が尽くした平安の世から争乱への出来事として象徴的です。

8月、9月 2回にわたり、17条憲法の考察や理解を深められ、大変有意義な時間を、皆様と共有できましたこと改めてはるかさんに感謝します。

連句の部
雑、春の句で挙句に向かっていただけたらと思い、トヨチュウさんにお願いして急遽 3句を変更していただきました。

名残(表)
省略
9      遠望の渦潮しろし鳴門橋・・・・・・・・・・・・・・クレチャン
10       パンパシゲームに目が泳がされ・・・・・・・・・・・Hilo
11(月)   雲はしり鬼ごっこの月いっき逃げ・・・・・・・・・・クレチャン
12       地上に深き影落としつつ・・・・・・・・・・・・・かわせみ
名残(裏)
1   証城寺(しょうじょうじ)異国のタヌキ大宴会・・・・・・・トヨチュウ
2       ほろ酔いのいま時はたゆとう(揺蕩ふ)・・・・・・・・・Hilo
3   大海の波頭に揺らぐ美保の松・・・・・・・・・・・・・・・トヨチュウ
4(案)    都をどりもよいやよいやさ・・・・・・・・・・・・クレチャン
5(花)
6(挙句)

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  聖徳太子「十七条憲法」

     平成30(2018) 823日(木)

     しじゅうからオフ会(担当:はるか)

皆さまに、ブログ編集が大変おくれ失礼しています。

つよい台風が近づく中、おかげさまで8月のオフ会無事に終わりました。とはいえ、8月の末になっても炎暑から逃れられません。

今回は表題について、はるかさんからオリジナル資料に基づき、推古天皇12年 西暦604に聖徳太子(厩戸皇子)が作ったとされる一七条からなる法文に関係する歴史、時代背景、政治、仏教、権力抗争などなど、詳しく解説をして頂きました。 また時間の関係で 現代語読み下しは第九条までとなりましたが、皆さまのリクエストによって、次回に先を読み進めます。(現代語読み下し文掲載は、解像度の関係で断念しています。)

日時: 8月23日(木) 10時30分から

場所: 茶房てん 8名参加 なお、ヤマチャン&梛沙さんから、折悪しく都合が付かないので、欠席します。皆さまに宜しくとのことでした。


以下 はるかさんオリジナル資料です。タグ許可の関係から一部レイアウトが異なります))


Ⅰ.聖徳太子(厩戸皇子)

 574年(敏達天皇3年)~ 622年(推古天皇30年)。49歳。 

同時代に、第30代敏達天皇、第31代用明天皇、第32代崇峻天皇、第33代推古天皇。

父は用明天皇(父は29代欽明天皇、母は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)、母は(あな)穂部間人(ほべのはしひとの)皇女(ひめみこ)(父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘小姉君)。父方も母方も蘇我氏系。

蘇我氏の系譜 : 満智(まち)韓子(からこ)高麗(こま)稲目(いなめ)馬子(うまこ)蝦夷(えみし)(いる)鹿()

 生前の名前を(うまや)(との)皇子(みこ)という。聖徳は没後の諡号(しごう)(おくりな)で、『懐風藻』(751)に初めて出てくる。(とよ)()(みみの)皇子(みこ)、上宮太子(うえのみやのみこ・かみつみやのみこ・じょうぐうたいし)、東宮聖王、法主(のりのうしの)(おおきみ)など呼称が多い。評価はさまざま。実在しなかったという説もある。

  593年(推古元年)に立太子する(20歳)。終生、太子の地位にとどまった。

高句麗の仏僧慧慈(えじ)に仏教を、百済の五経博士覚哿(かくか)に儒教を学んだ。

 ≪その時代≫ それまでの大伴氏(百済派)と物部氏(新羅派)に対して蘇我氏が台頭し、天皇の即位や仏教の受容をめぐって勢力を争い、深刻な様相を呈していた。

大陸では、隋、高句麗、新羅、百済、任那の間で複雑な抗争と交流があった。日本はそれぞれと交渉をもち(友好も侵攻も)、文化・芸術・仏教・儒教を学んだ。

 聖徳太子の主な業績(推古天皇、蘇我馬子とともに、飛鳥文化の興隆)

・ 仏教の興隆、寺院建築(四天王寺、法隆寺、中宮尼寺、橘尼寺など)、仏像制作(止利)

  ・ 仏典の講義と注釈 (『法華経(ほけきょう)義疏(ぎしょ)維摩(ゆいま)(きょう)義疏』勝鬘(しょうまん)(きょう)義疏』

  ・ 冠位十二階の制定 (大・小の 徳・仁・礼・信・義・智の等級)(603年)

  ・ 『十七条憲法』の制定(604年)

  ・ 『天皇記』『国記』等の編纂

・ 遣隋使、留学生、留学僧の派遣 → 帰国して政治・学問・文化の発達へ

 太子町の叡福寺に聖徳皇太子磯長(しなが)御廟がある。近くに推古天皇陵、用明天皇陵、敏達天皇陵、孝徳天皇陵、小野妹子墓ある。

 「十七条憲法において・・・万人皆「凡夫」にすぎないという人間有限性の自覚を明示していること、妻膳郎女(かしわでのいらつめ)に「世間(せけんは)虚仮(こけ)唯仏(ただほとけ)(のみこれ)(しんなり)」と告げたこと、臨終に山背大兄王ほか諸子に「(もろもろ)悪莫作(のあくをなすことなく)(もろもろ)(のぜん)奉行(をなせ)」と言ったこと・・・日本仏教史上における太子の意義のきわめて重要なことが確認できる(家永三郎

   「自分のポリシーをもって外来文化を取り入れる、ある意味過激な知識人」(東野治之)

Ⅱ.十七条憲法   → 原文、読み下し文、訳文は別紙に

 『日本書紀』(720)巻二十二「豊御食炊屋(とよみけかしきや)(ひめの)天皇(すめらみこと)推古天皇十二年」に全文が収録されている(「憲法十七条として) 『古事記』712)には載っていない。

偽作説もある。『日本書紀』編纂時や天武持統朝に加筆・潤色があったかとされる。

② 江戸時代に、林羅山、本居宣長、平田篤胤など儒学者・国学者から、聖徳太子は馬子の崇峻天皇暗殺を傍観していたとか、十七条憲法は中国古典の切り貼りであると非難された。

  明治になって廃仏毀釈の影響を受けたが、西洋歴史学の方法で評価されるようになる(久米邦武『上宮太子実録』など)。

戦前には、「(みことのり)を承りては必ず謹め」、「和」、君臣の秩序などが、天皇の命令に絶対服従すべきであると解釈され、喧伝されることになった。

戦後は、偉人として揺るがない一方で、皇国史観や「記紀」への反発があり、過去を批判すれば進歩的とされる風潮のなかで、保守的、古い、反動的なものとされがちであった。

昭和25(1950)、最高裁の大法廷の壁面に飾る絵を京都の堂本印象に依頼した。「聖徳太子憲法御制定の図」もある。新庁舎の建設で図書館に移された。

「和」(第一条)の思想が、十七条憲法全体を通じて語られている。

第二条で仏教興隆の宣言。推古32年に寺が46、僧が816人、尼が569人(『日本書紀』)。

十七条憲法は、今の憲法のような国家の基本法ではない。朝廷に仕える人々を対象にした心得・規範・訓戒。四書五経など中国・朝鮮から摂取したものによって官吏の理想的なあり方を説き、人間の内面的・精神的な問題(嫉妬、怠惰、物欲・・・)について述べている。

「君・臣・民」の関係を説くリーダー論 → 会社の社訓などに応用される。

 「いまだその地位を与えられなかった「民」「百姓」が、ここにはじめて支配階級から理論的に意識せられるにいたったのである。」(中村元)

「聖徳太子は『十七条憲法』を通じて、官僚制度を中央集権的に編成しなおすことで、朝廷の権威を増大するという政治的実践とともに、仏教による理想国家の建設を図り、具体化したのであるが、憲法に盛られた思想のなかには今日のわれわれにも教えるところが多い。」(中村元)

   「聖徳太子の憲法は、封建道徳を説いたものではない。その主要な内容は、国家が人倫の道の実現であるという思想である。そうしてこれが日本においては永い間政治思想の伝統として生き続けた。実際の政治はしばしばこの伝統の規範を離れ、徐々に新しい社会構造を作り出すように動いて行ったが、しかし人が一度政治の理論を求めようとすれば、ここに帰らざるを得なかったのである。(和辻哲郎『日本倫理思想史 上』、1952

Ⅲ.参考略年表(注:以下の年表は、年号についても事項についても、諸説がある)

538(552)年(欽明朝)百済から公式に仏教が伝わる。蘇我稲目が支持、物部氏・中臣氏は反対。

  574年(敏達3年) 厩戸皇子が生まれる。

585年 敏達天皇が没して、用明天皇が即位。

587年 用明天皇が没する。蘇我馬子が物部守屋を討つ(太子14歳)。崇峻天皇即位。

589年 隋が中国を統一。

592年 崇峻天皇が蘇我馬子の刺客に暗殺される(太子19歳)。推古天皇が即位。

593年 聖徳太子が皇太子となる(摂政となる)。 四天王寺を造る。

594年(推古2年)三宝興隆の詔が出される。

595年 高句麗の僧慧慈(えじ)が来て、聖徳太子に仏教を教える。(慧慈は615年に帰国)

600年 第一次遣隋使派遣。

603年 冠位十二階制を定める。

604年(推古12年) 「十七条憲法」を定める。

605年 斑鳩宮(今の法隆寺東院あたり)に移る(32歳)。

607年 法隆寺を建立。小野妹子を隋に派遣(留学生や学問僧も)。

613年 難波と大和を結ぶ大道を造る。

620年 『天皇記』『国記』等を編纂する。

622年(推古30年) 聖徳太子、斑鳩宮で没する。

623年 太子追善のため釈迦三尊像(止利作、等身大)を作り、法隆寺金堂に置く。

628年 推古天皇が没する。唐が中国を統一。

629年 舒明天皇即位(蘇我蝦夷が推した)。

  643年(皇極2年) 蘇我入鹿が斑鳩宮を襲い、太子の長子山背大兄王(やましろのおおえのおう)と一族を自害させる。 

645年 蘇我入鹿が中大兄皇子・中臣鎌足らに暗殺され、蘇我蝦夷が自害する(乙巳(いっし)の変)。

646年 大化の改新の詔。 難波に遷都する。

663年 白村江の戦い(百済・日本連合軍が唐・新羅連合軍に敗れる)

     参考文献 (諸氏が「無数」、「多すぎて」、「汗牛充棟」(かんぎゅうじゅうとう)というほど文献が多い。)

   『聖徳太子十七条憲法』(文部省社会教育局編、辻善之助解説、1932)、中村元編著『聖徳太子』(日本の名著2、中央公論社、1970)、家永三郎『聖徳太子集』(日本思想史体系二、岩波書店、1975)、中村元『聖徳太子 地球志向的視点から』(東京書籍、1990)、吉村武彦『聖徳太子』(岩波新書、2002)、岡野守也『聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想―』(大法輪閣、2003)、東野治之『聖徳太子』(岩波ジュニア新書、2017

非常に丹念に資料を作って頂きましたので、皆さまの興味が湧き上がり、歴史・古典を堪能出来ました。お礼申し上げます。
連句の部、連句スレッドに掲載します。)

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古典&連句の皆さまに
猛烈な暑さは命の危険を感じるレベルです。

こんな117.png107.png猛烈な暑さのなか、車乗り合いなどで駆けつけてくださって、オフ会を楽しんで頂けたでしょうか。
 夏の太平洋高気圧と、チベットからの高気圧のダブルパンチでこの状態は数週間にわたる、予報がでています。

日時: 7月19日 午前10時半から
場所: 茶房てん

内容として、連句の第21巻 山茶花の巻き 初折り(完)と 第22巻 名残折立から2首。さらにクレチャン、かわせみさんの3句4句と繋げました。
古典の部は、ヤマチャンにお願いしまして、古典における'ほととぎす'と'橘'についての考察、
サブとして、『源氏物語』・・あなたが選ぶ現代語訳は?
の資料から、皆さまの趣味、お気に入りは
と各々にご意見頂き大変興味深い内容でした。
なを、梛沙さんが会議のため欠席でした。

又、はるかさんからご提案を頂戴し、8月23日、第4木曜日に
古典&連句、暑気払いオフ会開催のはこびとなりました。
くれぐれ大暑にご用心くださって、皆さまと元気でお会いしたいと楽しみにしております。

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